私でもあなたでもなく,「第三者」が語るとき

 

 

28年目にして,ようやく内田樹を,内田樹と意識して読んだ。たぶん,中高時代のどこかでは,現代文のテキストとして扱われて読んでいたかもしれない。大学時代に読んでもよさそうなものを,残念ながら出会わずにこの齢を迎えた。

 

内田樹処女を脱したのは,夫が数ヶ月前に彼の本を購入してきたことがきっかけだった。大学時代に内田樹にハマったという彼がチョイスした,常に手元においておきたい3冊である。

 

寝ながら学べる構造主義

日本辺境論

私家版・ユダヤ文化論

 

彼の,超メタ認知的思考というか,あるいはこれこそを構造主義的思考というのか,物事を別の側面から見るのではなく,事象を空間に浮かばせて,くるくる回転させながら見ている感じが極めて興味深かった。私家版・ユダヤ文化論は,なんなら後半理解が追っつかなかったけれど,そういう考え方ができるのか〰という,んー,目からうろこではないな…かゆいところに手が届くというのもちょっと違うな,とにかく,その感覚が新鮮で,かつ私の好みだったのだ。

 

ということで,今回はそんな内田樹の本をいろいろ読んでみようと思って読んだ話。

読んだのはこちら。「先生はえらい」。

 

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師弟関係とは,同次元のものの量的な優位性によって形成されるものではなく,学ぶものの主体性により,初めて師が師として機能する,ということだった。

曰く,

 

師が師でありうるのは,師がいかなる機能を果たすものであるかを,師は知っているけれど,自分は知らないと弟子が考えているからです。

 

ということだ。

 

この本は中高生向けに書かれていたようだから,きっとこの先生はえらい,えらくない,なんて査定している時点で,師弟関係ではないのだよ,ということをいいたいのだろう。自分には理解できない謎めいた何かをもっている人であれば,こちらの心持ち次第でいくらでも師となりうる,そんな話が最後の方には夏目漱石やら太宰治やら,中国の能楽のエピソードやらで展開される。

 

 

さて,この本を読んで考えたことはいろいろあるのだが,印象に残ったこととそこから考えたことを,本文を引用しながら書いてみる。

ちなみに,私にとって師とは誰か,っていうのも書きたいネタではあるのだけど,これはまたの機会にする。

 

コミュニケーションはつねに誤解の余地を確保するように構造化されている

私たちがコミュニケーションを先に進めることができるのは,「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。

理解を望みながら,理解に達することができないという宙吊り状態をできるだけ延長すること,それを私たちは望んでいるのです。

 

相手のイメージしているものと,自分のイメージしているものがぴったり一致したら(実際に一致することはないので,一致したと感じたら),その瞬間に情報を交換する必要,つまりコミュニケーションを続ける必要はなくなる。相手と自分のギャップを埋める作業がコミュニケーションということになり,ギャップを埋めたら,関連する次のギャップを認識し,それを埋めにかかる。会話ってそうやって続くんだろう。

 

「わかる」ことは,コミュニケーションを閉じる危険とつねに背中あわせです。

 

確かに,仕事上であっても「この人は人の意見を聞かない人だ」と思っている相手とのコミュニケーションでは,自分の意見を出さず(情報を提供せず),発展性のない必要最低限の表面的な会話(情報交換)で済ましてしまうのも,そういうことだろう。実際に「わかる」ことはないのだけれど,「わかったつもりになる」ことがもたらす未来は,コミュニケーションの終焉になる。

 

 

ちなみに,私は気持ちいいコミュニケーション(内田の言う実感をもたらすコミュニケーションに近いと思う)は,自分への理解と共感を感じる相手とのコミュニケーションだと考えていた。が, 内田樹に言わせればそれは実感をもたらすコミュニケーションの本質ではないらしい。

 

誤解の余地なく理解が行き届いたコミュニケーションではなく,誤解の余地が確保されているコミュニケーションこそが,私達にコミュニケーションをしている実感をもたらしてくれるのです。

 

 おそらく,アップデートされ続ける理解と共感である必要があるのだろう。 ってことは,相手の理解を超えること,期待値を超えることが大事なのだろうか。そういう単純な話じゃないんだよね。ってのがこのあとの話。

 

 

内田のこのコミュニケーションのくだりを読んで,改めて考えたことがある。旧友と会うことに,私は何を求めているのか。特別な目的もなく旧友に合うという行為は,コミュニケーションを目的としたコミュニケーション以外の何物でもないと思うが,いったい私はそこに何を求めているのだろうか。

 

旧友の中には,当時はとても仲が良かったのにその後めっきり連絡を取らなくなる人と,そんなに仲が良かったわけではないけれど大人になってからも連絡を取り続ける人がいる。前者は,一緒に共有する時間がなくなってしまうと特段話すことがない,あるいは話す内容の次元が違って話していておもしろくない,もしくは得られるものがない,みたいなパターン。もちろん,会いたいけど連絡していないだけってのもあるけど。

 

一方,後者はなんなんだろうか。基本的には,話はお互いの状況のアップデートから始まる。そこから,何か自分の知らない情報とか普段の自分では触れられない考え方とか,自分ならしないような発想とか,そういうところを深掘っていく。そこで,なんらかの「へぇ〜」っていうのがあるのだろう。「へぇ〜」っていうのが,きっと私と相手とのギャップなのだろう。「へぇ〜」に出会わないと,前者のパターンになって終わる。

 

ただし,ここで気をつけたいのは,この「へぇ〜」は相手に立脚しているのではないか,というところ。相手が,自分の想定外の情報をもっているか否か,というところにとどまっている。そしてたぶん,私の相手に対する「へぇ〜」だけでは,コミュニケーションはいずれ終わってしまう。理解した気になってしまう日がいつかやってくる。あるいはこれ以上理解する必要がないという気になる日が。

 

では,今度は私に立脚した場合はどうなるのか。私の話す内容を理解しようとする姿勢と,実際に一定程度理解してもらった感触,おまけに共感,までほしい。最後の共感は,納得できる代替案,でも構わない。主題を共有して,相互に理解し議論できている状態が,気持ちの良いコミュニケーションな気がする。理解を途中で放棄されたり,中途半端な理解で理解されたつもりになられると気持ちよくない。誤解を最大限埋める努力を伴う活動と,最終的に得られる相手との相互理解が満足感をもたらしている気がする。

 

内田樹は,私がここで言う「誤解を最大限埋める努力を伴う活動と,最終的に得られる相互理解」にあたるものを次のように表現していた。

 

私達は過去を回想しながら物語るとき,その回想を終えた時点(今はまだ語っている途中なので,それは「未来のある時点」ということになります)において,「完了しているであろうこと」(つまり,私の話を聞き終えた聞き手からの理解や愛や敬意の獲得)をめざして語ります。

 

確かに。こう話すことによって,最終的に相手がどのような反応をするか,というのを会話をしながら軌道修正し,言葉を選びながら,ラカンのいう「前未来形で過去を回想」している。内田の言うように,めざす先には理解だけでなく,敬意の獲得も含まれるだろうし,恋人であれば愛を含んでくるんだろう。

 

その上で,コミュニケーションが白熱している状態を次のように表現している。

 

対話において語っているのは「第三者」です。対話において第三者が語りだしたとき,それが対話のいちばん白熱しているときです。言う気がなかったことばが,どんどんわき出るように口から溢れてくる。自分のものではないようだけれど,はじめてかたちをとった「自分の思い」であるような,そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。見知らぬ,しかし,懐かしいことば。そういうことばが口をついて出てくるとき,私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります。

 

なるほど,言い得て妙である。 口にだして話しながら,「そうそう,私ってこう思っていたのよ」となるときは,すごく興奮して楽しい。楽しいと言うかもはや清々しい。こうなるときは,確かに相手に引き出してもらってそういう言葉が口をついて出てくる。まさに会話ではなく,対話になっているのだろう。自分が相手側の立場でも,この状態の対話はおもしろい。

 

一方,話しながら「なんか,違うんだよな」と思っているときは,まぁ興奮はしていないし,気分もよくない。この冷めた状態は,自分の中で考えがまとまっていない,とか,自分の伝え方が悪い,と考えがちだけど,相手の引き出し方がうまくない,という影響も相当ある気がする。うまく引き出してくれない相手には,だんだん話す気もなくなる。

 

この感覚は,多少の強弱はあれど,日常的にも結構な影響力をもっているはずで,パートナーや仕事などで日々密接にコミュニケーションをとる人との会話は,この手の興奮が一定程度必要である,という気がする。これについても,内田樹のうまい表現があった。

 

恋人に向かって「キミのことをもっと理解したい」というのは愛の始まりを告げることばですけれど,「あなたって人が,よーくわかったわ」というのはたいてい別れのときに言うことばです。

 

人生や仕事のパートナーが「引き出してくれる相手」である必要があり,同時に自分がそのパートナーにとって「引き出せる相手」である必要がある。双方のバランスが取れないと,長期的な関係は築けないのだろう。 

 

なんだか,抽象的な表現をするととても堅苦しくて難しそうな話になるけど,粋なジョークができる,っていうレベルでいいんだと思う。それを引き出してくれる相手だってそんなにいるわけじゃない。コミュニケーションは質より量。とある上司が口癖のように言っていた。量の先に質があるから,まずは量から。打率はその先に上がっていく。(とはいえ,その量の先に辿り着く前に終わることが多いんだけどね。)

 

 

それと,最後にもう一つだけ引用。心に響く文章についても,内田は同じ構造で説明をする。

 

わからないけれど,なにか心に響く。「たしかに,そうだ」と腑に落ちるのだけれど,どこがどう腑に落ちたのかをはっきりとは言うことができない。だから,繰り返し読む。そういう文章が読者の中に強く深く浸透する文章なのです。

 

彼の文章そのものが,ほんとこれなんだよなーと思った。

 

おしまい。